第二章
  ジェイムズ経験論の中心思想

第二節 根本的経験論の中心思想


 われわれがジェイムズの根本的経験論を考察する時に最も注意させられるのは「経験」のもつ生きものの如き躍動的性格であろう。そのような経験は決して経験一般として抽象的に存在しているのではなく、常に特殊的経験、個人的経験としてある。従って根本的経験論とはかかる経験が実在のすべてであり、経験があってはじめてその他すべての事象の存在を認める立場、いわば経験が事象の本質に先だってあることを主張する考え方なのである。それではジェイムズは根本的経験論の中心思想をどうとらえていたのか。
 彼にとってはそれは一つの公準a postulateであり、二つは事実の叙述a statement of factであり、三つは一般的結論 a generalized conclusionである。
 以下それについて彼の考えに即して説明しよう。
「公準とは哲学者たちの間で論議されるべき唯一の事柄は経験からえられる言葉で定義しうるものでなければならない、ということである。
 事実の叙述とは事物間の関係は結合的なそれであれ、分離的なそれであれ、事物それ自身と同等に直接的特殊的経験に属する事柄である、ということである。
 一般的結論とはそれ故に経験の諸部分はそれ自身経験の諸部分である諸関係によって次から次へと結びついている、ということである。要するに直接に知覚される宇宙は何らの外的超経験的連続物を必要としないでも、それ自身連結、連続せる構造をもっているのである。」
(1)
 前節で述べられたように、根本的経験論にとっての障害とはある種の合理的信条である。この信条は実は経験のある部分に対するわれわれの認識の不十分さ、即ち「関係」の考えについてのあいまいな注意力及びそれを背後から容認するアプリオリズムに起因しているとジェイムズは考える。これに反しいささかのアプリオリズムを認めないというのが彼のいう根本的経験論の立場である。従ってそれは人間の精神に内在するアプリオリズムにとってかわる新しい精神的態度として、経験に徹するという態度によって具体化しうると考えられている。
 その意味では根本的経験論の公準は経験第一主義が経験論者自身によってひそかに破られているという欺瞞性をするどくついている。ジェイムズによれば経験論は文字通り「直接的に経験されない要素をその構造に認めるべきでないし、直接的に経験されるいかなる要素もその構造から除外されるべきでない」
(2)のである。この考えはとりわけ経験されない要素にまで執着を示す哲学者に鉄槌をうちおろしていると考えられるのではないか。さらにこの公準は「実在的であるすべてのものはどこかで経験せられうるし、又経験せられうるあらゆる種類の事物はどこかで実在的でなければならない」(3)という信念を必要とするものである。
 このジェイムズの考えを支えているのは経験のはば広い活動性であろう。そこにおいてジェイムズは従来の経験論の気のつかなかった経験の作用する力を認めようとする。これが根本的経験論の第二、第三の命題となってあらわれるのである。
 根本的経験論の事実の叙述における最も特徴的な点は経験の連続性を関係概念の特殊なとらえ方において根拠づけたことである。即ち経験を結びつけている関係は「それ自身経験される関係でなければならず」
(4)、経験されるいかなる種類の関係も「その体系における他のいかなるものと同様に実在的とみなされねばならない」(5)とジェイムズはいう。経験とは常に経験の連続性の意味であり、経験の連続性が主張されるためには諸経験間の関係も又経験的事項でなければならないというジェイムズのこの論理は単純明快である。この場合関係とはあらゆる種類のものをさすようだ。たとえば時間、空間、差異、類似、変化、割合、原因の諸関係であり、要するに二つ以上の事物が想定される状況下にある無数の関係を意味している。
 ところが合理論や普通の経験論においては関係はもっぱらに「精神の仕事」
(6)であるとされている。合理論と普通の経験論との間の違いは関係づけられる二つの事物が概念的対象としてとらえられているか、知覚的対象としてとらえられているかの違いであり、いずれにしても二つの事物は明確に異なる性質でもってお互いに分離せられているという点で共通性があるのである。
 われわれはここでは合理論者の関係づけについては論議の対象外としなければならない。なぜならば概念的対象とはその本性上分離せられ、独立した存在であり、それ自身完成せられているので、論理的には絶対的ななにかによってしか関係づけられないということをわれわれはすでに知っているからである。
(一)
 しかし経験論の知覚的対象に関しても関係づけの働きは精神の仕事であるとわれわれが了解する限りにおいては概念的対象同様、すでに明確に異なり且つ固定せる二つの知覚的対象の存在が前提されていると考えられるであろう。というわけは精神による関係づけにおいては関係づけられる項目が心像として具体的になんであるかが明確にされなければならないからである。このためには知覚的対象それ自身が静的で一つの画像的抽象の様相をもたねばならないのは当然である。
 そこで普通の経験論者は知覚的対象が素朴な意味で経験的なそれであると認めているにもかかわらず、それらが関係づけられる状況におかれるや、にわかに精神の知的機能にゆだねてしまうのである。ところが普通の経験論者は他方ではいわゆる経験なるものが日常の世界において連続的な流れをもっているというジェイムズの主張するような常識を知っているために、合理論的思考のパターンを模倣してまでも、関係づけられる諸項目の結合を考えようとする。その結果分離して結合するという作業を通して常識が認める経験的流動性に対して筋道を通そうとするのである。
 だがそれによって結合された項目は果たして経験の連続性を十二分に説明しているのだろうか。むしろその具体的結果として意味されているのは、普通の経験論者は常に「事物の結合を除外し、分離を最も強調する傾向をしめしている」
(7)という主知主義の意向ではないだろうか。普通の経験論者は関係を考える際にも結合的及び分離的関係が十分に且つ同等の部分である存在としてあらわれるという事実を忘れているのである。
 それに反しこの結合的関係という言葉が根本的経験論の知的考察に許された唯一の重要な観念なのである。ジェイムズはこの結合的関係の言葉の使用によって、同一の自己に属し且つ異質のように考えられる二つの経験が一つの流れにおいてとらえられているという事実をあきらかにしようとした。即ちジェイムズは結合的関係を「一方の経験が他方のそれに通じていく共通的意識の推移」
(8)の意味にとらえたのである。それ故一種の結合的関係の中に経験の連続的推移をみてとったのである。しかも根本的経験論者であるということは、単にそれを認めるのみならず、「あらゆる他の結合的関係にしっかりと固執する」(9)までに徹底している態度でなければならないのである。
 かかる人間は主知主義者ないしは精神の仕事を重視する人とは違って諸感覚の間の結合が直接的に与えられており、又その本来の可感的な所与においては、はかなく瞬間的であり特殊的であることも知っているのである。結合的関係の実体とはかかるものであり、ここに根本的経験論者が便宜的に関係という言葉を使っても、他の考えの人たちの使う関係の意味と異なっている点が理解されねばならない。その意味ではジェイムズにとっては「関係づけられる事物」と「事物を結びつける関係」は同等の経験的対象なのである。
 根本的経験論の事実の叙述においてジェイムズの最も主張したかったのは、われわれによって具体的に感じられた経験の通りすぎるいかなる瞬間も直接的に次の隣りの部分と合流するという考えであった。経験の隣接する最小の部分ともなんら媒介を要することなく完全に結合するというこの考えは生の連続的流れの哲学的肯定である。
 それは根本的経験論の一般的結論へと導いていく。まず第一に宇宙ないしは世界が全く直接的に知覚されるものとしてあるということである。いいかえればそれらは決して精神の知的働きによる産物ではなく、まさにわれわれの感覚の表現そのものといってもよいところの存在として現象している点である。宇宙や世界は精神によって知られたもの、いいかえれば「~として知られたものthe known-as」ではなく、みえるところのものである。 第二に精神にとって対象とされる外的存在と精神の内にある内的存在の二重性を認めておらず、それらはすべて経験的事実として理解されいる点である。このジェイムズの主張はきわめて特異である。経験第一主義を標榜する根拠が可感的経験作用に求められるとするならばジェイムズの根本的経験論はある種の伝統的な唯我論をひきつぐ考えであるともいわれるだろう。だがジェイムズの経験第一主義とは必ずしも認識論的な一元論とはいわれえず、逆に実践的観点から根本的経験論の一般的結論を導きだしているのである。
 ジェイムズは根本的経験論における経験を次のようにとらえる。「直観的に識別される存在の原初的精神性ないしは物質性はない、ただ一つの世界から他の世界への経験の推移的所在、即ち明白に実践的知的目的のための一組あるいは他の組の連合をも伴う一群の経験があるだけである。」
(10)ジェイムズはそこにおいて経験というものが単に抽象的な事実として、又単なる存在としてあるといっているのではなく、一つの文脈contextをもったものとして全体的に理解されねばならないというのである。
 たしかにわれわれが認識という見地にたった場合、経験が「外的」及び「内的」なものの関係に中心をすえて考えられうる傾向のあるのは否めない。だがジェイムズははじめからそれにこだわる態度よりも、一つの文脈(あるいは一つの創造的意図をもって方向づけている流れ)をもった経験があり、そこから結果的にいろいろな諸関係が決定されてくるという見方を採用せよと主張しているのである。従って「外的」と「内的」とは「経験がその隣りの部分に作用する方法に従ってその経験をわれわれが類別する二つの名前である」
(11)といっているにすぎない。
 われわれはこの考えも実はジェイムズのもっている原点的な要請からきていると考えてもよいだろう。いいかえれば存在も単に事実としてあるばかりではなく、われわれの主体的要求と結びついた実在的創造的活動性をもったものとしてなければならず、さらにそうであるならばそれは必ずどこかで直接的に実行されねばならない、という要請からである。そのためにジェイムズにおいては経験がすでになにか超経験的ななにものかによって規定されたりあるいは偏見を与えられていたりしてはいけなかったのである。その結果ジェイムズは経験から出発する考え方が文字通り一つの人間の自由的存在の正当な証しであるとするために経験が内的、外的のいずれにもかたよらぬ中立的neutralな特性をはじめからもっている事実を強調せねばならなかったのである。
 とはいえこのジェイムズの考えはまさに彼の結論を端的にのべたものである。ジェイムズの認識論的問題において心理学の時代から彼を苦しめていたのはやはり二元論の問題であった。ジェイムズはそれを、たとえば主観と客観、精神と事物、考えとその対象、知るものと知られるもの、意識と内容等の問題におきかえてあらゆる著書の中でとりあつかっている。この二元論の問題においてジェイムズが素朴且つ具体的に抱いていた疑問とは以下の命題「明白に一つの実在であるところのものが同時に二つの場所、即ち外的空間と人の心の中にあるのはなぜか」であった。
 たとえば次のような一つの例があげられるだろう。ここに「私が山をみている」という経験的事実がある。ジェイムズはそこから出発する。なぜならそれが唯一の実在的なものだからである。それがどうして山というものがそこにあり、そして私が存在し、そしてみているということになり、その結果存在している山と私の心の中の山という風にわかれてしまうのであろうか。それは知覚の哲学に関する限り宿命的なもののようにジェイムズには思えた。それ故ジェイムズはまず以下の如く考えずにはいられなかった。「哲学の歴史においては主体とそれの客体は絶対的に不連続的な実体として一貫してとりあつかわれてきた。そのために客体の主体への現存ないしは主体による客体の『了解』はあらゆる種類の理論がのりこえられねばならないパラドキシカルな性格を帯びてきた」
(12)と。 ジェイムズ自身、心理学的時代の当初においてはこの二元論をある程度認める立場にあった。それは『心理学原理』の一つの章で、精神の他の事物に対する関係といったとらえ方を認めた上で「主観と客観の二元論及びそれらの予定調和は心理学者がたとえ超一元論的哲学を後にもっていても、形而上学者でもある権利をもつ個人としては主張せねばならないものである」(13)というひかえめなジェイムズの主張の中にあきらかにされている。
 しかしこのパラドックスはその解消される方法にその解決の糸口をもっているのである。それは何を意味しているのか。同じ二元論を考えるにも、二元論のもつパラドックスをいかに解消しようかという態度と、もともと一つの実在であったものがどうして二元論的になっていったのかという考え方とは明白に異なっている。前者はまさにジェイムズのいうように二元論の予定調和を志向しているのに反し、後者は二元論そのものの拒否によるパラドックスの無意味化を意図している。前者は主知主義的であり、後者が根本的経験論的である。ジェイムズはこの二つの間を激しくゆれ動きながら、次第に後者的な考えに傾いていったと考えられるべきであろう。
 いずれにしても二元論のパラドックスは解決されねばならない。従来の哲学においては三つの方法がとられた、とジェイムズはいう。即ち表象説と常識説と先験説である。「表象説はその隙間の中に一種の媒介として心的『表象representation』『心象image』ないしは『内容content』を入れ……常識説はその隙間にふれないままにし、われわれの精神は自己超越的飛躍によってその隙間を明らかにしうると宣言し……先験説はその隙間を有限の知者によっては考察不可能とし、飛躍的行為をなすために絶対者をもってきた」
(14)のである。
 これらの三つの方法は(もっとも常識説はさほどではないにしても)主知主義的な抽象を採用しているために、二元論のパラドックスを揉み消すことにはなったが、主体と客体の存在という二元的足場を逆に不動のものにしたと考えられるだろう。ジェイムズはわれわれの存在的生の観点からこれらの方法は経験とは無関係であると主張する。なぜならばジェイムズにとって経験とはそのような内的二重性をもっているのではなく、まさに未分のままで与えられた一つの状態としてあると考えるのが、最も実在の実態をしめしているからである。
 われわれはここにもジェイムズの経験の特異な規定に遭遇する。Aという事項があり、その上にBという事項があり、それらの二つの事項が関係づけられるという単なる図式は経験そのものには適用されず、知 knowingの世界における事実の象徴に適用されるのみである。ジェイムズにとればかかる知とは最も神秘的な存在であり、安易に知を経験としてはならないのである。
 ところが主知主義者は逆に知的世界を経験的世界とするばかりか、知的でない世界を彼らなりの実在的世界観から放逐しようとさえする誤謬をおかす。ジェイムズは心的事象をとりあつかう「心理学」においてもかかる主知主義的方法に眩惑される危険性のある事実をのべている。彼はそれを一般の心理学者の陥りやすい罠として注意しているが、それが単に心理学者のみならず、主知主義者にもあてはまっているといわれよう。即ちそこではジェイムズはまず言語の問題をとりあげ「心理学における錯誤の源の第一は言語の誤れる影響から起る」
(15)という。
 われわれは一つの現象をあらわす一つの言葉をつくるときはいつでも、われわれはその現象をこえて存在するその言葉の一つの実体を想定する傾向にある。又逆に言葉が欠如している場合には、われわれはそこにはいかなる実体も存在しえないと想定する傾向にある。前者は合理論者、後者は経験論者が考えがちな傾向であるが、いずれにしても、小熊虎之助氏がいうように「この両者は共に言葉と実在とを、知識とその実在その者とを、広くいふなら認識の条件と存在の条件とを混同する、理知主義(主知主義)の大いなる通弊の一つに陥ったものである。」
(二)そこでは分離された言葉に対してはやはり分離された事実が表裏一体となって対応している。
 なかんずく問題なのは後者の場合であり、そこには心理学における錯誤の危険性が多分に存在する。なぜならばわれわれが名前のないものthe namelessに注意を集中することは困難であるからであり、すると不可避的に「大抵の心理学の記述的部分におけるある空虚さ」
(16)がはばをきかせてくるからである。ここでジェイムズの力説したかったのは名前のないもの、ないしは名前と名前の間にあるもの(日本語の場合は助詞とか接続詞等にあたるもの)は規定的に非存在なのではなく、名前のあるものと同様に存在し、且つそれと連続的につらなって存在しているという点なのである。言語の誤れる影響とは言語の僭越的行為である。言語は実在をつくりもしなければ、実在の流れを記述することもできないのである。
 心理学における錯誤の源の第二は第一のそれよりもさらに悪い欠点をもつ。それは「考えthoughtにわれわれが名前をつけるのはその考えそれ自身の対象によってであるので、対象があるとそこにはその考えがなければならない」
(17)と仮定されることである。そのために個々の事物の考えはただ個々の考えないしは「観念」から成り立ちうるのみであり、又抽象的、不変的対象の考えは抽象的、不変的観念でありうるのみである、と仮定されてくる。同様に小熊氏はそれを次のように解説している。「識想(考え)を明確に個別された而も固定的な所謂『観念』なるものの集合と考へるその結果、外界事物の多様と同在と継起とに関する知覚を、知覚其者の多様と同在と継起であるかのやうに誤解することである。」(三)
 同氏によれば、その結果この仮定は言葉を実在にあてはめずに、実在を言葉によって規定することになるのである。ジェイムズはこの錯誤において心的流れの連続性が犠牲にされている点を指摘する。そこにあるのは単なる原子論であり、レンガ建てによる建築計画である。これらの考え方に従えば「諸観念」がきりはなされた実体的存在としてとりあつかわれるために、内省的根拠の本質を把握すべき心理学は誤った道を歩まざるをえず、パラドックスと矛盾に支配されてしまうのである。
(四)
 第三及び第四の誤謬は心理学者の誤謬 the psychological fallacy とよばれている。その内第三のそれとは「心理学者自身の立場と彼が報告しつつあるところの心的事実の立場との混同」(18)とよばれる罠である。およそ心理学者は自らの心的状態の中ではある考えとその考えの対象の二つを意識している。即ち心理学者は彼が話そうとしている心的状態の外側にたっているので、心的状態とそれの対象は共に彼にとっては対象的にあるのである。そこでその心的状態が知覚とか考えとか概念とかいった認識的状態である場合に、彼は普通その状態を名づけるに、その状態の対象の知覚、考えであるとする以外に他の方法をもたないのである。そうなると彼は彼流には同じ対象を知っていると容易に想定するよう導かれやすくなってくるのである。これは考えの中に又考えと対象をつくるのと同じ意であり、ジェイムズ流にいえば意識の二重性を与えることになり、主知主義の困難を倍加させる以外のなにものでもない誤謬をつくりだすのである。
 心理学者の誤謬の四つ目の様相は「研究されるべき心的状態は、心理学者がその心的状態を意識しているように、自らを意識していなければならないという仮定である。」
(19)この仮定の根拠は第三のそれと同じで心理学者の立場と考察されるべき心的事実との混同にある。心的状態はそれ自身を内部から知るのみである。それはわれわれがその状態それ自身の内容とよんでいるところのものをつかんでいる。それに対し心理学者は心的状態を外部から知り、そしてあらゆる他の事物とその状態との関係も知っている。考えがみるところのものはその考えの対象であり、心理学者のみるところのものは、考えの対象プラス考えそれ自身プラス可能なあらゆる他の世界である。
 ここに心理学者の避けがたく陥りやすい罠がみいだされる。それ故われわれは心理学者の見地から精神の状態を論じるにあたっては、われわれの問題としてのみあるところのものを精神の状態それ自身の領域にまぎれこまさないように注意せねばならないのである。いいかえればわれわれは意識が現存しているとわれわれが知っているところのものを、「についての意識」であるところのものに代えてはいけないのである。
 この第四の錯誤はいわれるまでもなく、カント派(及び新カント派)の人々にむけられたものである。彼らの論理は必然的に主観と客観の二元論的考えを支えるために、われわれの内的状態すらも、非経験的知性の対象としてとりあつかい、その実在性のかわりにその象徴性があたかも最も真理的であるかのようにふるまいだすのである。
 彼らのこういった僭越の根拠はデカルト以来のコギト的思考法を金科玉条にしたところにある。つまり意識あるところには常にコギトがあるとされている。コギトはそれが実体論的にとらえられる限りにおいて、もはや経験的次元をとびこえている。意識を意識する存在、即ち自意識はカント派の人たちにとればあらゆる思考の大前提をなしているだろうが、それは単に空虚な思考のためにしか価値をもっていない。ジェイムズの疑問は世界や宇宙の事実の把握に際してカント派の人たちのやるように対象とその意識といった如く明瞭に識別する必要があるのか、という点にあった。さらに一般的にいうならばわれわれの認識の世界においてコギトは不可欠の存在として認められなければならないのか、であった。
 ジェイムズにとってコギトは認識の重要な鍵ではなく、従って絶対的精神、抽象的思惟などではなく、もし説明しうるとするならば、せいぜい感じfeelingをもつわれわれの肉体的存在の生理的現象でしかなかったのである。ジェイムズはそれを次のようにいう。「我の対象のすべてにともないうるに違いないとカントがいったところの『我考える』は実際その対象にともなっているところの『我呼吸する』である。」
(20)
 このジェイムズの言明は多少心理学的説明による科学的態度に毒されているとはいえ、コギトを超経験的存在者に身売りするカント派の人たちへの痛烈な皮肉となっている。ジェイムズのいう心理学者の誤謬は一般的にいえば観照的立場の欠点をついたものである。だがそこからわれわれの思考における一つの教訓を導きだしている。それはわれが思考しているという事実は決してわれわれの出あう最初の事実ではないということである。われわれにとっての最初の事実とは一連の思考が進行しているということである。
 この事実は命題化しにくい。だがあえて命題化するならば、われわれが通常「雨が降る it rains 」といえるが如く、はじめに「思考が進行する it thinks 」なる事実があるのみである。「it thinks」は事物が単に存在するばかりではなく、われわれによって知られる<即ち実在的になる>ための入り口である。その意味ではカント派の人たちの「我考えるI think」とジェイムズの「it thinks」は認識論における一つの原点としての類似性をもっているといえなくもない。だが前者が経験を超絶的立場からとらえようとするのに対し、後者は経験をそれ自身の一つの進行過程からとらえようとする点で異なっているのである。
 以上の如くわれわれは心理学における錯誤の根源を考察してきたが、そこでジェイムズによって問題とされていたのは、やはり心理学(主知主義的心理学)では実在のあつみが完全に把握できないという点であったと言えるのである。
 さてジェイムズの根本的経験論は認識論的には主観と客観の二元論の解消を意図しているものである。するとわれわれはなぜに認識論における二元論を拒否せねばならないのか、という疑問をも解消せねば根本的経験論の存在価値を積極的にみいだすまでには至らないであろう。
 ジェイムズ流に考えれば、それは知的二元論であるからである。しかももともと経験的事実として一つであったものが知性によってひきさかれた結果生じた二元論であるからである。いいかえれば彼の批判する二元論は事物の流動性、経験の連続性を精神の中で一度ペンディングし、静止の状況を経た後に生まれでる性質をもっているのである。このような分離はジェイムズによれば引き算の方法によっている、といわれる。即ち経験というものを一度精神というスクリーンの前でピンづけし、次いで経験の一つの部分(たとえば意識)を抽出すれば、残りはおのずともう一つの経験の部分(たとえば意識の内容)になるというわけである。
 だがこの抽出作業にはすでに先にのべられた心理学者の簿謬が存在している。なぜに経験の一つの部分といわれるものが明瞭に識別されてくるのか。それは経験の一つの部分であると判断するなにか非経験的な存在を認めているからであり、それを認めるのも、それを認めるにふさわしい精神の条件、いいかえれば経験が知的にピンづけされているという状況が想定されているからである。ここでは経験は完全に切りとられた断片として存在する。われわれが事物の本質をみるために便宜上経験が切りとられるのはやむをえないにしても、この場合切りとられた経験の部分はいつのまにか独立の、それ自体で存在しているかのような不動性をもってくる。このような状況下において、引き算の方法による二元論が可能なのであり、しかも両極に分離されたものは永久にそのままの関係を保つことができ、そのために知性は満足するのである。
 ところで根本的経験論は、仮令、意識とその内容への分離を認めるとしても、それは便宜上切りとられた経験と、さらに隣に位置している切りとられた経験との連続的な関係において認めているのであって、決して分離された知のためではない。ジェイムズは意識とその内容は共に経験に属し、同一の文脈における異なった役割にすぎないと考えるのである。ジェイムズによれば「経験の意識とその分離は引き算の方法によってではなく、加算の方法によって、即ち与えられた具体的な経験の一片に他の組の経験の加算によって生じる」
(21) のである。いいかえればわれわれにおいては経験は未分の経験の部分として与えられる。そしてそこになんらかの知者が介入してき、同時に知者の対象となるものが導出されてくるのではなく知者とその対象がどろどろの状態になったものを未分の経験そのものが含んでいるのである。かかる状態が整理されてくるようにみえるのはあくまでも次の経験が連続して生じている場合である。
 だがかかる状態は整理されたようにみえても、さらに次の瞬間にはどろどろのそれにされてしまう。あたかもその過程自身が生きものの如く、躍動しているかのようにである。そして最初、知者のようにみえていたものが、今度は対象にされているかもしれないのである。経験の部分とはあくまでも一つの文脈においてとらえられるのであって、決してそれ自身が独立しているのではない。文脈が違えば経験の部分(しかもどろどろした未分の部分)は全く相反した性格をもっているようにみえるのである。即ち「与えられた未分の経験の部分は一つの連合の文脈においてとらえられれば、知者、精神状態、『意識』の役を演じ、同じ未分の経験の違った文脈においては被知の事物、客観的『内容』の役を演じる」
(22)のである。
 ジェイムズのこの見解は経験論ではあるにしてもあまりにも主観的な様相を帯びているきらいがないでもない。後述されるようにジェイムズはこのような状態の世界を純粋経験の世界とよんでいる。そしてそのような世界が具体的に何からなりたっているかを問われた場合、ジェイムズは明確には答えないで、ただ「それはそのものから、丁度みえるものから、空間から、激しさから、平らかさから、茶色から、重さからつくられている」
(23)というのみである。とはいえそこではどろどろした状態の世界の定義を無理に求めようとするわれわれの方が主知主義の罠に陥ってしまっているのかもしれないのである。
 だがいかにわれわれが主知主義的であっても、ジェイムズのこの主張は比喩的にしか見えない。われわれはジェイムズのように完全に「心身一元論者」でないかもしれないが、経験の流れがわれわれの世界をとりまいているという事実については知っている。だが単にこの事実に賛同するだけでは根本的経験論者になりえない。従ってわれわれが根本的経験論であるかどうかの踏絵を与えられるのはジェイムズの「心身一元論」が経験的世界についての比喩的説明にみえるのか、それとも実在的説明であるのか、の二つのうけとり方によるだろう。
 その意味では根本的経験論は全く新しい一つの哲学的懐疑を要求しているだろう。それは考えthoughtと事物thingは普通いわれているほどに異質的であるのだろうか、である。この際われわれは常識的になることは危険でる。常識においては考えと事物はあきらかに異なっている。しかし根本的経験論はそんな常識に対し、考えと事物の異質性を否定するのが経験的なのである。この全く逆の作用が共に経験的といわれるのは皮肉な現象である。だがそこにこそ、経験的事実とよばれるものを主知的にとらえるか主意・主情的にとらえるかの違いがあらわれているのである。
 それでは根本的経験論はなぜに考えと事物の異質性をそれほど強調しないのか。それは考えや事物を何か不動の存在をしめす実態としてとらえていないからである。考えや事物とは経験的事実を機能的にとらえる結果の二つのよび名にすぎないのであって、それらは実体的に存在しているというよりも機能的に存在しているのである。従って考えや事物はあくまでも経験的事実の中で演じている役割なのであって、それ以上のものではない。ではこの役割はいかにして決定されてくるのか。それこそ経験によってなのである。この経験がいわゆる経験一般とよばれるところのもの、あるいは経験の形式性をさしているのではないことはいうまでもない。常に新しく起こってくる具体的経験である。そして同時にそれはわれわれの内的経験と一体となっている。この内的経験は決して存在の一方の側、即ちあの実体的に考えられる精神状態をのみ意味しているのではなく、主体・客体・関心・目的が連続的になっていると考えられるわれわれ個人の歴史的存在そのものである。かかる個人の内部においては経験はほとばしる生そのものとなっているのである。
 ジェイムズの経験論の骨子となっているものは経験をどこまでも経験的流れとしてとらえる点である。その際、経験をなりたたしめている実体の存在という観念はジェイムズには不要である。そもそも経験をなりたたしめる根拠を求める作業こそ無意味なのである。第一にそのためには経験的流れの外にたつ態度が必要とされる。第二にその作業は死後の解剖の如くすでに過去にあったものの詮索にすぎず、未来の可能性に目をむけていない。
 それ故にわれわれは経験をなりたたしめているものは何なのだ、とあらたまって考える必要はない。経験はただわれわれの目の前に、あるがままに、みえるままに、あるのであり、しかもそれがわれわれにとって最初の直接的事実なのである。根本的経験論はそのような素朴な自然実在論を支持している。そして経験は存在するばかりではなく、知られるという点を特に強調する。かかる経験の特殊性はむつかしく考えられる必要はなく、経験の「意識的」性質によっても、又前に論述された如き、それ自身も経験であるところの諸経験間のおたがいの関係によっても、十二分に説明せられているのである。ジェイムズの根本的経験論の三つの命題はそれを言語的にまとめたものであるといえよう。


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